Cendrillon
"Viens avec moi,J'ai besoin de toi"
U

弟王子の熱はそれほど高くもなく、発熱の他には重篤な症状が見られる訳でもなかった。
駆けつけた春の王子とサンドリヨンは、明日には熱も引くでしょうという侍医の説明を聞いて胸を撫で下ろした。
「おねえさま」
薬草茶をゆっくり飲みながら、幼い弟王子はサンドリヨンを呼ぶ。
「おねえさま、ここにいてくれる?」
「はい、おそばにいますよ。今夜はここで眠りましょう」
彼女はそう返事をして、女官長に頷きかけた。
「では姫様、もうひとつ寝台を用意させましょう。お添い寝なさると、姫様にも熱が移る心配がございます」
「でも……」
そばにいてあげたい、という表情でサンドリヨンは春の王子を見つめた。
「ありがとう、サンドリヨン。しかし女官長の言うことも尤もだ」
彼女の肩をそっと抱き、王子は弟王子を部屋を見渡した。
「弟を看てくれるのなら、君まで熱を出してはいけないよ。君だってそんな薄着で――あの女官を廊下に置き去りにしてしまったから、上着がまだ来ないな」
本来なら、寝巻き姿で貴婦人が廊下を走ったりすることはあり得ないのだ。この人はつくづく変わっている、だから目を離せないのだろうかと王子はこっそり笑う。
「まあ、本当にお寝巻きのままですのね。何か上着を……」
「女官長」
薬草茶を飲み終えた弟王子が、衣装棚を指差した。
「ガウンを出して。そこに入っている――お母様のガウンを、おねえさまに」
「――」
兄が、弟を見つめた。
「おねえさまに着てほしいんだ、お兄様、いいでしょう?」
「ああ」
兄は優しく微笑んだ。そして、彼みずから衣装棚を開き、特別なものだと一目で分かる美しい上着を取り出してきた。
「さあ、これを羽織って」
それは、秋の草花の刺繍が一面に散りばめられ、胸元、袖口、長い裾には繊細なレースが何重にもあしらわれた絹のガウンだった。
「母の着ていたものだ。弟にとっては、大事な形見なんだよ」
「いえ、いけません。お母上の……そんな大事な服に、私が袖を通す訳には……」
当然ながら、サンドリヨンは辞退した。王子は彼女の意見を聞かず、ふわりとそのガウンを着せ掛けた。
そして、弟のベッドのそばへ彼女を連れていく。
「薬を飲んだらもう休まないと。……ほら、母上のガウンを着てもらったぞ。とてもきれいだな」
「うん、お兄様」
「さあ、弟君。もうよろしいですか? 姫様は今夜ずっと、ここにいらして下さいますよ。ご安心しておやすみなさいませ」
弟王子はこくんと頷き、再び横になった。女官長がシーツを整える。
「……お兄様」
「うん?」
「お母様のあのガウン……ぼく、すごく好きなんだ……」
熱があっても、弟王子は笑っていた。寝入った弟を見下ろして、兄は呟いた。
「ああ、知ってる」
そして、その視線が移動する。
サンドリヨンは身の置き所がないような、困った顔をしていた。亡き王妃の美しい衣装をつけたその彼女をまっすぐに見つめながら、彼は続けた。
「知っているよ。あの時、おまえはまだ小さくて――まだ赤子だったから……父と俺はいつも国政で忙しくて……ずっと、寂しかっただろう……」
弟にとっても、彼女は幸せの鳥なのだ。
彼女との偶然の出会いが、彼だけではなく家族までも変える。そんな奇跡のようなことがこの世にはあるのだ。
「あの……殿下。今日は私がここで弟君に付き添います。王子様は明日もご多忙ですもの、お部屋に戻ってお休み下さい」
「また、そんな他人行儀な言い方をする」
不服そうに、けれど笑いながら王子は指摘した。
「女官長は家族も同然で、俺の行儀の悪さもよく知っている。彼女に遠慮はいらないよ」
「まあ、殿下」
女官長も微笑んで、亡き女主人のガウンを身につけた少女を――感慨深げに――見つめるのだった。
「本当に、よくお似合いで」
「ああ……」
「……」
「では、どうか弟をよろしく。仕方ない、今日は一人寝でも我慢しよう」
「あ……王子様」
部屋を出て行こうとする王子に、サンドリヨンは丁寧に会釈した。ガウンの裾を広げて。
「お休みなさいませ」
「ああ、お休み。この様子だと弟は朝まで眠るだろうし……君もあまり張り詰めず、できるだけ休んでくれよ」
「はい……あの……お休みなさいませ。……春海、さま」
◇
翌日の夕刻には、弟王子の熱も引いた。
それでもサンドリヨンはすぐに自室へは戻らず、請われるままに弟王子の遊び相手として、未来の姉として留まっていた。
午前から午後にかけては女官長からの授業、図書館での自習。剣の稽古。夕食は弟王子と共にした。熱が引いた今では、眠る時も同じベッドだった。
「やれやれ。いつになったら俺の部屋へお戻りいただけるのかな。姫様」
焦れた春の王子が訪問できるのは、夕食後から就寝までの短い時間だけだった。
「いらっしゃいませ。――まあ、東の少将様まで。ご機嫌よう」
「ご機嫌よう、サンドリヨン」
「どうぞ、お二人とも中へ。お飲み物を用意しますね」
「あなたもすっかり、城に慣れたようですね。――おや、それでも……」
東の少将が、弟王子のベッドの下に転がっていたものに目をやって、心底おかしそうに親友に耳打ちをした。
「玩具の剣だ。奥方様は、相変わらずのようだね」
「ああ、二人で試合をしているらしい」
肩をすくめて兄王子が返事をする。
「このところ、あなたと話す時間もないと王子が拗ねていらっしゃるのですよ、奥方様」
「お、奥方……」
「それでね。弟君にも友人がいれば少しはあなたを自由にしてくれるだろうということで……私の妹を、いずれご紹介したいと思ったのですよ。弟君よりは少し幼いが、話相手にはなれるでしょう」
「あら、それは弟君もお喜びになりますね。同じ年頃のお友だちがいらっしゃれば」
サンドリヨンは女官から飲み物を受け取り、王子と少将に手渡した。元気になった弟王子は、ベッドの上に飛び込んでシーツを被ってしまう。
「ぼく、女の友だちなんていらない。おねえさまがいればいいんだよ」
「まあ……」
「さすがはご兄弟、仰ることがそっくりだ。会ってみないことには、何が起きるかなど絶対分かりませんよ」
少将が含み笑いで、兄王子を横目で眺めている。
「確かにまだ幼いが、私の妹はなかなか賢い子ですよ。それに、自慢じゃないが美人だ」
「大した自慢じゃないか」
「そう。あなたの奥方には敵わないが、と言っておきましょう」
いかにも親しげに彼らは笑い合った。
何度もサンドリヨンのことを奥方と呼ぶ東の少将は、恐らく城の者たちと同じで王子とサンドリヨンがすでに、最初の夜を過ごしたのだと――つまり実質的に結婚を果たしたのだと思っているのだろう。
王子は余計なことを口にせず、周囲が誤解するままに話を合わせているらしかった。
「ここは大人ばかりだからね。子供には子供の世間があるし、遊んだり喧嘩しながら学ぶんだ。兄だというのに、今まで俺は何もしなかったのと同じだな。反省するしかない……少将、ありがとう。妹君を歓迎するよ」
「では、段取りをつけておきましょう」
「おまえもいいね? 小さな貴婦人への礼儀を、勉強してもいい頃だ」
兄は、ベッドの上で話を聞いている弟に声を掛けた。
「……はい、お兄様」
渋々といった風情で弟王子は答えた。サンドリヨンがそばに行き、少年の肩を抱く。
「きっと、良いお友だち同士になられますよ」
「うん……そうなのかなあ……」
「さて、それでは」
王子がソファから立ち上がる。
「今夜はお姉様を、兄上の部屋へ戻してくれるかな? もう二週間以上、この人とゆっくり話していないんだよ」
「……」
サンドリヨンが王子を見た瞬間、弟王子の部屋のドアが叩かれた。
「皆様、失礼いたします」
女官長がまず現れ、その場の代表者である春の王子に告げた。
「国王陛下がお出ででございます」
「え?」
「お父様が?」
「これはお珍しい。陛下が?」
兄弟と少将がそれぞれ声を上げる。
「え……えっ? 陛下?……陛下……?」
サンドリヨンはいまだ国王――春の王子の父親とは顔を合わせていなかった。宮廷での礼儀を習得するまで、城の生活に慣れるまでは急ぐこともないと春の王子は判断したのだ。
当然ながら、世継ぎの息子が花嫁を見出したことは国王も承知していた。いずれ近いうちにこうなることは分かっていたが、常に多忙である父が兄弟の住む宮までやって来るというのは、王子にも予想外だった。
そうであるのなら、今、花嫁を紹介するまでだ――と思ったのだろうか。彼はサンドリヨンの手を引いた。
「緊張することはない。いつもの君のままでいいのだから」
「……」
今夜の彼女はさすがに寝巻き姿ではなかったが、とうに日中の行事が終わったこともあって比較的気楽な、体を締めつけない型のドレスを着けていた。飾り物もほとんどない。
「私……こんな姿で、国王陛下にお会いする訳には……」
「心配はいらないよ」
王子が囁くのと同時に、女官長がドアを大きく開いた。年配の男性が入ってきた――兄弟と同じ黒髪の、長身痩躯の堂々とした姿。その目は、緊張しているサンドリヨンでも一目で分かるほど……おかしいくらいに春の王子とよく似た目だった。
部屋にいた四人は、国王に対しての礼をする。
「楽にしなさい。少し、時間が空いたものでね」
国王はまず最初に、次男である弟王子を見た。
「様子を見に来れず済まなかった。もう、すっかり元気になったようだね」
「はい、お父様」
「女官長から、熱はすぐ引くだろうとは聞いてはいたのだがね……しかし、軽い風邪でよかった」
「女官長と、おねえさまが看病してくれました」
弟王子の言葉に、国王はゆったりと頷いて兄王子とサンドリヨンに目をやった。サンドリヨンはぎこちないながらも貴婦人の礼をして、国王に挨拶を述べる。
「国王陛下には、初めてお目にかかります。わ、わたくし、サンドリヨンと申します……」
「いやいや、初めてではないよ」
「え?」
「……?」
春の王子が怪訝そうに眉を寄せる。国王は笑った。
「私が出て行くと大仰なことになるのでね。あの夜、離れた場所から武道会を見物していたんだよ」
「……それは、父上。私も初耳ですが」
「若者たちの会に、王が出座ということになれば礼儀だ何だと堅苦しくなるし、興醒めだろう?――まあ、そういう訳で……見物していたら青いドレスの女性が剣を振るっているではないか。しかも、私が若い頃に見たことのある剣だった」
「え……?」
「皆様、どうぞお座りになって下さいませ」
女官長の指示で、女官たちがソファを整え、飲み物や食べ物を用意していた。まず国王がソファに腰掛けてから、他の四人も同じようにした。
「あなたの剣は、私が師と仰いだ方の剣だ。息子からあなたの家の事情も聞いている」
サンドリヨンは気後れを捨てたようだった。まっすぐ顔を上げる。
「で、では……? 陛下は祖父を、ご存知でいらっしゃると……?」
鋭い目だが、春の王子と同じで微笑むと印象がまるで変わった。
「そう。あの方は頑固な方でね、宮廷に居を構えて指南役を……と何度もお願い申し上げたのだが、城でなければ振るえないことはあるまい、何処にいても剣は同じだと撥ねつけられたのだよ。その後、師亡きあとは、先立った息子の後妻とその娘が我が物顔で住まっていると耳にしてはいたが……つまり、あなたは私の師の孫娘でいらっしゃる」
「まあ……まあ」
国王は身を乗り出して、小柄な少女の手を握った。
「何という偶然なのだろうね。息子が妻にと決めた女性が、あなただとは。――私はもう、諸手を挙げて賛成なのだよ。こうなれば、一刻も早く正式に婚儀を……と、ね」
「……」
東の少将が、こっそりと肘を突いて王子を祝福する。それに応えながらも王子は息をついていた。
彼は恐らく最初から、こういう形では――外堀を埋めるような形で――サンドリヨンを急かしたくはなかったのだろう。気持ちは有難いが、余計なことまで……という表情を、彼はしていた。
王は彼女の祖父との昔話をいくつも披露して、彼女を笑わせたり感動させたりした。サンドりヨンの打ち解けた表情を確かめて、国王は腰を上げた。
「では、また会おう。サンドリヨン」
「はい、陛下」
「世継ぎの王子の婚儀ともなれば、まず正式な婚約、式の日どり……披露宴、衣装の用意、客人の招待――目が回るほど忙しくなるからね。あなたに体力の心配は無用だが、多忙でもどうか、婚約の期間を楽しんで過ごしていただきたい」
「父上、それはまだ……」
「はい、陛下。お気遣いいただき、ありがとう存じます」
サンドリヨンも立ち上がり、再び貴婦人の礼をした。国王は何度も頷きかけ、長男を最後に見つめた。
「この方を大事にな。――母上にも、ようやく報告ができる。あの子が花嫁を見つけたと」
「……」
「少将、王子を頼んだよ。あなたは息子の最も信頼する友人で……私に言えないことでも、あなたにはきっと話すだろうからね」
「畏れ多いことでございます、陛下。私に出来得る限り」
「ありがとう。では、また」
女官を引き連れて国王が退出していく。
そろそろ夜も更け、幼い弟王子は眠る時間である。妹を今度連れてくる約束をして、少将も引き上げた。
「お兄様、おねえさま、お休みなさい」
弟王子がベッドに入りながら言った。
「お兄様、ずっとおねえさまをひとり占めしてごめんね」
「いや……」
春の王子が、困り果てた顔で唸った。
「今日は……」
「……」
「今夜……君は、まだここで休みますか? それとも……」
それは明らかに、弟の部屋に留まっていてほしいという声音だった。
「……」
そして、ふいに王子は目を見開いた。
「……サンドリヨン、君に見てもらいたいものがある。来てもらえるだろうか」
「はい」
「すぐだ。すぐ済むよ」
「はい」
「用事が終われば、君はまたここに戻ればいいから――」
「あら、でも、いまお聞きではありませんでした? 弟君からは、もう私のお役目は終わったと言い渡されましたでしょう……?」
鳥のさえずるような、可愛らしい笑い声だった。王子は何度も瞬きをして、ぐっと彼女の手首を掴んだ。
長い廊下を渡り、二人は後宮の奥の奥へと進んでいく。やがて、静まった一角にたどり着いた。そこは、サンドリヨンがまだ一度も訪れたことのない場所だった。
壁面や天井には美しい装飾が施され、花が溢れるように咲いている。
まるで温室のようだった。
「ここはね。母の住んでいた、王妃宮だよ」
「……」
「俺たち家族にとって、いちばん大事な場所だから……日頃は誰も入れない。手入れをしてくれる女官長と、ごく少数の女官の他は。でも、君は……君だけはここに連れて来ようと思っていた。今夜、父に会ったのだから母にも……」
「……」
王子とサンドリヨンは、見つめ合った。
少女の肩を抱いて、王子は口づけた。
「――父も、そうしろと俺に言ったのと同じだ。母に報告ができると最後に言っていただろう?」
「ええ……」
「母に会ってほしい。さあ……」
鍵までは掛かっていないようで、王子は亡き王妃の刻印のついた扉を開く。
薄暗い室だったが、王子が持っていた灯りをかざすと美しい女性の微笑みが光に照らされた。巨大な肖像画が恋人たちを出迎えたのだ。
優しい眼差し。白い肌、黒く豊かな、美しい髪。
「母だ。芙蓉の王妃と呼ばれていた」
「……」
その絵画の前には、まるで祭壇のように花が飾られていた。サンドリヨンは一歩身を引き、ドレスの両裾を広げて三度、礼をした。
「王妃様。……初めてお目にかかります」
春の王子は肖像画に腕を差し伸べていた。
彼女が、僕の妻となる人です。
僕が見つけた人です――そう、誇らかに告げるように。
(C)Kobayashi Lilyco
2016