Cendrillon その夜、寝心地の良すぎるベッドにサンドリヨンはすぐに陥落してしまった。寄り添わず距離を置いて二人が横たわっていても、とにかく大きな寝台だったので問題はなかった。問題があるのなら、王子の胸に沸き起こる感情そのものであっただろう。 「弟は、よほど懐いているんだね。熱を出して君を呼ぶなんて……」
"Viens avec moi,J'ai besoin de toi"
T

悪意の家を抜け出し、王子に手を取られて彼女が見上げたものはガラスでできたかのように美しくまばゆい城。
今のところは花嫁候補として滞在することになったサンドリヨンだが、城の者たちはその言葉をただの建前と受け取った。湯浴みを済ませたサンドリヨンは体中に香油を塗られ、絹のドレスに身を包んだ。
女官に導かれて――長い廊下を進んでいく。
春の王子の待つ部屋へと。
◇
「困ったな。君には君の、別の部屋も用意しているのに」
「……」
「臣下たちは気をきかせたつもりなんだろうが、ちゃんと父に言ったんだ。あの人とはこれから、ゆっくり知り合って――戦って、彼女が本当にそうしたいと思ってくれるなら結婚すると。無理に、今すぐとは思っていない」
もう、気楽な部屋着となった王子は彼女を迎えて、少々照れたように言い訳をした。
「申し訳ない。君もさぞ驚いただろう」
「は、はあ……こ、こんな恰好をさせられて、何が何だか分かりませんでした……それに、あの……変なにおいじゃありませんか……? お風呂のあと、花の香りだからと腕にも足にも、体ぜんぶに塗られてしまって。私、こんな豪華な寝巻きにも全然慣れていないし……あの……」
「……」
王子は、サンドリヨンをじっと見つめている。
「はずかしい。似合わないから……」
「似合っているよ」
「……」
「だから、困る。まだ、そんなつもりじゃなかった、俺は……失礼……今の私は本当に困っているんだ。無理やり君を妻にしたくはないから」
サンドリヨンは顔を上げた。
「でも、あなたは私を助けてくれました」
「……それとは別の話だろう? 助けた男だからと、恩を押しつけて私は君を……」
口ごもったあと、王子はサンドリヨンに腕を差し伸べた。小さな指を握りながら彼は続ける。
「もう、君には、本当の言葉で話してもいいだろうか……?」
「はい……はい。もちろん」
「君もだよ。君も、もう堅苦しい言葉遣いはやめるんだ。――恩を押しつけて、無理やり自分のものにしたくない。それに、王子というのは、ただの身分だ……そうではない俺のことを知ってほしい。俺も君のことが知りたい」
「……」
「そういう約束だっただろう? いつまでも待つ。それに、剣の決着もつけなければ」
サンドリヨンはちょっと笑いを誘われたらしく、可愛らしく微笑んだ。王子も笑い、握ったままの彼女の指を見た。
「こんな、小さな指で。こんな細い腕で、この俺と互角だった……君をもっと知りたいんだ。勿論、もう二度とあの家に戻ることはない。ここにいてほしい」
「……」
「ただ……困ったな。君を今すぐ自分の部屋に戻すと、臣下たちがまた何を言い出すか知れたものじゃないし――とにかくあの者たちは、どうにか俺に花嫁をと今までも画策してきたんだよ。俺がまったく関心を示さないものだから……あの夜まではね」
君に出会うまでは、と王子は最後に囁いた。
サンドリヨンは赤くなった。
「わざわざ波風を立てることもない。――ここへ、サンドリヨン」
王子は自分の、一人で眠るにはあまりに広いベッドを指差した。驚いて身を引く彼女に、なだめるように笑ってみせる。
「ただ眠るだけだよ」
「え……?」
「二人で眠ろう。部屋の中で何があったか――何もなかったなんて、臣下たちには知りようもないからね。でも……君には、恐ろしいと思われて当然だろうな」
「……」
「何もしない。誓う」
「……はい」
その真摯な眼差しに、サンドリヨンは頷いていた。彼女が彼に惹かれたことは事実なのだ。身分よりも先に、強い剣を持つ者として……
そして、彼もまた同じように。
「はい。信じます」
「ありがとう……」
王子はふと、彼女の香りを確かめるように顔を近づけ――優しい口づけをした。
「いい香りだ。本当に」
初めて星を見つけた子供のように胸が躍る。
青い鳥を見出した幸運を、いまだ彼は信じかねているのかもしれない。
夜が明けるまで、彼は眠る彼女を見つめていた。
翌日から、サンドリヨンは家事に追われていた過去とはまた違う意味で多忙になった。さっそく彼の弟王子に引き合わされたが、とても素直な少年で、彼女にすぐ心を開いてくれた。
年配の女官長からは、貴婦人として、未来の王子妃としての教育を受けることになった。
「とてもお優しい方なんですけど」
日中はそれぞれの部屋で過ごすが、一日の終わりは王子の寝室だった。二人は親しい会話を楽しむようになった。彼が彼女のために取り寄せた甘い菓子を、行儀も気にせずベッドの上で齧ったりしながら。
「覚えることがあんまり多すぎて……私には務まらない気がするんです」
「ひとつずつ、ゆっくり覚えればいい」
王子は愉快そうに笑った。彼女の手にしていた箱から宝石のようなプラリネを摘み上げ、口に放り込む。
サンドリヨンと出会って以来、王子の笑顔が多くなった、優しくなられたと城の人々は噂した。
若く美しい王子は優秀であったが、余りある才気や高貴な威厳が時には人を怯ませたり、怖れさせたりもしたものだ。しかし今では、彼の纏う気配は随分と穏やかなものに変化していた。それも当然と言えば当然なのだろうと人々は言い合った――王子のそばには妻と決めた女性が寄り添っているのだから。
「アイ女官長はもともと、俺の母に仕える侍女だったんだ。母亡きあとも、後宮をよくまとめてくれている」
「ええ、そうなのですね。女官長からは王子のお好きなものも聞いています」
「君は――」
王子はふっと、上体を起こしてサンドリヨンの頬に触れた。
今夜の彼女は光沢のある絹のガウンと、レースのついた夜のドレス姿。小柄な彼女の、無防備な寝巻き姿は本当に愛らしかった。
毎日念入りに整えられる髪は寝室のほのかな灯りを受けて輝いている。――そろそろ、王子にとっては夜の語らいが苦痛になってきた頃でもあった。彼女を知れば知るほどに驚きがあり、喜びがあった。
すでに、剣も何度も合わせていた。サンドリヨンの亡き祖父は、彼の尊敬していた伝説の老剣士だったのだ。
「はい……?」
「まだ、そんな堅苦しい行儀を優先するのかな。もちろん宮廷での礼儀は必要だけれど……ここにいる時だけは、もう、忘れてくれないか」
「で、でも。突然に、礼儀知らずにはなれません」
サンドリヨンは両手を頬に当てて、恥ずかしそうな仕草を――無意識のままに――見せる。
「王子様は王子様ですし、私は……たとえ祖父や両親が健在だったとしても、それでもただの貴族の娘です。お許しをいただいても、そんな、今すぐ馴れ馴れしい言葉遣いなんて……とんでもありません。こんなふうにお話できるだけでも、私は嬉しいのに」
「……」
王子が、サンドリヨンの肩に手を置いた。
「俺も、嬉しい」
「……」
「名前を呼んでくれたら――もっと、嬉しい」
「お名前……春の……」
「ああ。それも間違ってはいないが、本当は春の海という意味なんだ」
「海……」
「母がそう名づけてくれた。俺が生まれようとしている頃、父と母が保養のために海の別荘にいて……そこからは、春の花が次から次へと咲いていくのがよく見えたそうなんだ。一年でいちばん美しい季節……もうすぐ生まれるこの子にも、人生が美しくあるように……海のように豊かで広く、生命を育み慈しむ人に。春のように輝かしい一生であるようにと。だから、俺の名は――『春海』という意味だよ」
ほうっと、サンドリヨンは息をついた。
「なんて、きれいなお名前なんでしょう。それに……お優しいお名前。お母様が名づけられたのなら、お優しい響きであるのもよく分かります」
彼女がふと、腕を動かした瞬間に大きめのガウンが一方の肩からすべり落ちた。サンドリヨンが絹を手繰り寄せようとする前に、王子が彼女の手を掴んでいた。
「『春海』」
彼は言った。
「俺をそう呼ぶのは、この宮廷では東の少将ぐらいしかいない。まあ、彼も人前では礼を尽くしてくれるから、なかなか機会は少ないが……」
「はい……」
「君も……」
「私が、そんな……王子様のお名前を、そのまま呼ぶなんて」
「呼んでほしいんだ、俺が」
「……は、春、海……さま?」
「……」
不思議なものを見つめるかのような、王子の目だった。
「そう、春海だ。……城へ来る前にも言ったが、もう一度約束してくれ。一緒に過ごすようになって、ますます愛しいと思うようになったよ……だから、俺は君を離さない。君も、ここから離れないで」
「……」
抱き寄せても、彼女は抵抗しない。
「君は……そうだ。君は――」
王子はふいにまばたきをして、彼女をまじまじと見た。
「すまない、自分のことばかりだった。いちばん大事な……君のことを聞くのを忘れたりして……それなのに、気だけが急くとは」
夜も更け、甘い菓子も忘れ去られた。彼女はいまだ遠慮をしていても、王子から目を逸らすことだけはしなかった。
剣を合わせる時は、その外見から想像もできぬほどの殺気、気合いを漂わせる。それでいて、手合わせが終わるとにっこり微笑む。女官長の教育についていけないとため息をつきながらも、必死で礼儀を習得している。――何もかもが一途だった。
「君の、名前は?」
「……」
サンドリヨンは首を横に振った。
「ご存知でしょう? 私は、サンドリヨンです」
「いや、違う。それは――あの義母と義姉が悪意でつけた名前だろう? 灰かぶりなどと。君にも、生まれた時の名前があるはずだ。俺と同じように」
「でも、それが今の私の名前なのです。ずっと……祖父がいなくなってから、誰も、昔の名前で私を呼んではくれなかった……」
「だから俺が、呼びたいんだ。教えてくれないか」
もう、これ以上近づいてはいけない。
明日から、共に夜を過ごすことはできない。そうしなければ約束は守れない……王子の目は訴えていた。その腕の力が、サンドリヨンの意思を確かめたいかのように強くなる。
「本当の君が……知りたいんだ」
「……」
「もっともっと知りたくて……止まらないかもしれない」
「王子様……」
「春海」
「……は、はるうみ、さま。わたし……私は」
「……」
「私の……名前は……」
答えを言おうとするくちびると、答えを待つくちびるが近づく。
互いの息の音が聞こえる。
肌の熱さまでが伝わってくる――
「お、王子様!……こんな夜更けに失礼いたします、殿下!」
二人は、天蓋つきのベッドの上で顔を見合わせた。ドアが激しく叩かれている。
「申し訳ございません。弟君が……」
こんな時間に、世継ぎの王子の寝室に女官が――主人が呼んでもいないのに――訪れるのは普通ではなかった。その直感通り、女官はドアの向こうで用件を伝える。
「弟君がお熱を出されまして……軽いお風邪だと存じますが、サンドリヨン様を呼んでいらっしゃるのです。どうかお許しを」
するりと、王子の目の前で絹が光りながら流れ落ちる。彼女の動きに沿って、ドレスの裾がふわりと波打つ。
サンドリヨンはベッドから降りて、王子を振り返った。
「私、弟君のおそばへ行きます」
「……ああ」
王子は頷き、自分もベッドから降りてドアを開いた。
「俺も行く。弟のことだからね――この人に、何か上から羽織るものを持ってきてくれ。このままでは薄着だから」
女官に指示して、王子はサンドリヨンの手を引いた。
「行こう」
「はい」
二人は、広大な城の廊下を駆けていく。女官を置き去りにして、まるで競争するように灯りの輝く道を走り抜ける。
王子は、走りながらも彼女を目で追わずにいられなかった。
ドレスをなびかせ、まっすぐな瞳で前だけを見て走る彼女が愛しい。何も知らなかった、何も。今までの自分は知らなかった。
星がこれほど眩しいことも、幸せの鳥の羽ばたきがこれほど待ち遠しいことも。
親友の言った通りだった、と王子は思った。
誰かをいとおしく思うこと。――本当に、何も知らなかったのだ。
「可愛らしい弟君ですもの。私も好きです」
「そうか。ありがとう」
「……お兄様によく似ていらっしゃいます。大好きですわ」
頬を赤く染め、サンドリヨンは王子を越えて疾走した。
(C)Kobayashi Lilyco
2016